本の紹介ではない何か
こんな気持ちになると分かっていても『流浪の月』を再読した。
いつだったか、良い本はすかさず報連相しあう友人に、『流浪の月』は「鬱な本」と紹介したことを思い出した。
ひとことでそんな形容をするのは、作品に対してあまりにも無礼で不誠実。
分かってはいる!
読んでほしくて紹介するのだから、「読んでもらえるような」言葉をもって作品の空気感を、それはもう、大切に大切に、伝えるよう心掛けている、普段は。
2020年本屋大賞受賞
愛ではない。
けれどそばにいたい。
新しい人間関係への旅立ちを描き、
実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。
せっかくの善意を、わたしは捨てていく。
そんなものでは、わたしはかけらも救われない。
(単行本の帯より)
何に惹かれてこの本を手に取ったのか。
帯のことばにももちろん惹かれた。
でもそれ以上に、
なんとなくそれにそぐわない、苺のアイスクリームのかわいらしい写真が表紙に気を取られた。
アンバランスやな、
帯のことば頭でっかちに感じるやん、
ギャップやな、
そこ月の写真とかちゃうん、
ねらったんか、
あざといな、
ギャップ萌えやな、
気になるな、
この作者はじめてやな、
おもろいかな、
おもろくあれ!!!!
謎の祈りを胸にレジ直行。
ほくほくで帰宅し、いざ『流浪の月』。
たしか3時間ぐらい、一息で、ぶっ通しで読んだ。
本を閉じる。
何これ。
なんやこの。
善意が悪意に、
事実と真実が交錯して、
都合の良い解釈が、
独りよがりの思いやりが、
渦巻く社会を全部、
バケツで頭からかぶったような、そんな、そんな気持ちになって、
腹を空かせた夕飯前の自分がなんとも呑気で能天気で無神経な生き物に思えて、
なんやこの、この心臓の底でぐるぐる重たいこれは、一体。
等身大の気持ちを等身大の語彙で表そうとした。
で、ぽろっとこぼれたのが「鬱」だったのです。
各位に申し上げます。ごめんなさい。本当に。そんな紹介された友人の身になってみい。だれが読みたい!てなるの。あほ。
というか、今キーボード叩きながら思ったことやけど、
私はこの本を、誰かに、本当に読んでほしいのか?
「こんな」気持ちになると分かっているのに?
「こんな」気持ちを体験してほしい変人?
あ、でも、なんとなく、辿りつく考えがぷかりと浮かんできた。
ひとつの物語、解釈は人の数だけ。
人の数だけ、物語が増える。
物語を愛する者として、そんなん、喜ばずにはいられない。
読んだ人がそれぞれどんな飲み込み方をしたのか知りたい。
本の紹介をすると、毎回一定数の本の虫たちが自分の「飲み込み方」を知らせてくれる。
それをむしゃむしゃとほおばって、自分の中の物語を貪欲に増やしていく。
物語が主食で、感想が食後のデザートの怪物かなんかか?
なんちゅう利己的な。
それでも、
この自分勝手な本の押し売りを嫌がらずに
(待って、嫌がってるかもしれないごめんなさい)
「前言ってた本読んだ!」と、急かさずとも連絡をくれる秀でた本の虫たちがいるおかげで、
一方通行じゃない悦びを知ってしまったせいで、
これからも、満腹と別腹をこよなく堪能していくのだろう。
本の紹介は、これからも止められないと思う。