読書感想文⑧ 森下典子『いとしいたべもの』
走馬灯、ぜひ体験してみたい、と思います。
いや! 単純にどんなんなのかな、って〜〜
ことばにするのは簡単ですが、なんともこの走馬灯とやらは、致死的危機に接しない限り体験できないそうで。
大学4年のころ、ふとしたときに、小学生の頃や中学生の頃の記憶が思い出されることが、一時期連続してあったのですが、あれは多分走馬灯ではなかった気がします。
その時期に思い出す記憶はどうも、嫌な記憶、思い出したくない記憶、くだらない記憶だったりしました。
あまりにも、ぽつぽつたくさん嫌なことを思い出すものだから、心配になり、日々こう検索したものです。
急に 思い出す 嫌 記憶 原因 精神
改めて見てみると、なかなかの病み様で、笑ってしまいました。
笑える今が幸せなんですかね。
わからん。
わからんけど、嫌な記憶を思い出したときの、あの胸のギュッとなるのはない。心が軽い!
森下典子『いとしいたべもの』。
私には本を貸し借りしあう、中学生のちいさな友人がいます。
本日はその友人の強烈な勧めを受け、借りた本の感想文です。
たべものの味にはいつも、思い出という薬味がついている。
うむ、たしかに。
とうなってしまった序文から、一貫して描かれるのは、たべものと森下さんの思い出。
本当に一貫されているので、退屈かと思いきや。
ものの1時間弱で187頁読み切ってしまうほど、すべての章が軽快で歯切れがよく、しかし、どこかしみじみと、遠い日に味わったたべものの味を思い出すように脳になつかしさが染み入る、そんな一冊。
何が軽快で歯切れがいいかというと、なるほどと思ってしまう森下さんのオノマトペ。
第1章の「オムライス世代」では、
むっちりとした明るい黄色のオムライス
こんなにおいしそうな文、他にあるのでしょうか?
「むっちり」がまさかオムライスにマッチングされるとは。
私はもちろん意表を突かれたし、「むっちり」自身も、え?!オムライス?!え?!となったことでしょう。きっと。
このように、たべものの形容がため息が出るほど、上手い。美味い。旨い。
他にも、
ぽくぽくとした栗の歯ごたえと、それにからまる薯蕷のモチモチ感。甘くて、しっとりして、おもわず顔が崩れるのを感じた。
こちらは、和菓子老舗、鶴屋𠮷信の栗饅頭「栗まろ」の描写です。
ひらがなとカタカナの絶妙な使いこなし。
栗は「ぽくぽく」。
山芋を蒸しあげた饅頭の生地である薯蕷(じょうよ)は「モチモチ」。
ひらがなとカタカナの読者へ与える「感じ」の、何がどう違うのかはっきり言い表せないが、ははん、なるほど、と。
うんうん頷き納得してしまいます。
さらに、たべものの描写がウマいだけでなく、たべものの「薬味」がこれまたウマいのです。
ここでいう薬味は、冒頭で引用したとおり「思い出」をさします。
「カレーパンの余白」という章から引用します。
さくっ、という感触と同時に揚げ油の甘い匂いがふぁ~んと漂い、パン粉がチクチクと口や頬を刺した。幼い頃抱っこしてもらった時の、父の伸びかけた髭の痛さを思い出した。
たまらんですね。
ふつう、カレーパンからは想起されない思い出ですよね。
しかし、誰もが体験したことのあることだと思います。
カレーパンを一口かじって父の抱っこを連想した、森下さんのまっすぐで混じりけのない感受性に胸がときめき、それだけでなく、何とも言えないなつかしさに襲われました。
こんな風に「食」に命の重きを置き、「思い出」に心を震えさせることができたならどれだけいいでしょうか。
食をおろそかにしてしまいがちで、良いことは忘れっぽく悪いことは引きずる私には、森下さんの真似事さえもできません。
しかし、本の醍醐味、追体験。
『いとしいたべもの』追体験のおかげで、これからカレーパンをかじるたびに父の抱っこのあたたかさを思い出すことができるようになりました。
凝固した褐色の丸みを帯びた長方形に、お湯を注ぐ。ゆらゆらかき混ぜ出来上がったお味噌汁は、インスタントといえど優しい味の湯気。それを一気に吸い込むように心からの深呼吸をする。
といいますか。
……我ながらなんとまあ、わかりにくい。
森下さんの真似事はやはり、わたしには難しいようです。
夜ご飯、ポンデリングひとつ。
言ったそばから。
私はそういうやつなんです。てへ。